道灌公の末裔家の史書ーその21

  • 2020.02.16 Sunday
  • 12:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、「小針村平川氏碑識」の碑文中に記載してある、伊奈備前守忠次(ただつぐ)公が築いた備前提(びぜんてい)、その構造などについて、最近の航空写真を基に、具体的に記載するものとします。

 

 伊奈備前守忠次公が完成させた備前堤は、慶長年間(1596〜1615)に作られた延長三百三十間(約580叩の堤防で、荒川(元荒川)と綾瀬川を分離(ぶんり)したとある。これにより、綾瀬川は備前堤の下部が起点となった。ただし、これにより備前堤の川下(かわしも)の地域の発展には、大きな貢献(こうけん)となったが、川上の地域では良いことばかりでは無かったらしい。

 それは備前堤の上流の住民にとって、上流の氾濫(はんらん)時に低地の綾瀬川方面が堰(せ)き止められて上流の浸水が多くなり、紛争の火種になったこともあると云う。

 

上の写真は備前堤の現在の航空写真の図を示すが、綾瀬川は川の起点から備前堤に沿って北に降(くだ)り、すぐに東に曲がり西に長く降る。
 また、元荒川は綾瀬川より北を流れている。しかし、昔は図中の綾瀬川の起点付近に荒川が流れ込み、綾瀬川方面に流れ降る大河であったと云う。
 また、伊奈備前守が築いた備前堤は、図で示すような、長さ範囲が六百団の大事業であったと考えられる。仮に上流(西)側で、川が氾濫すれば、備前堤で堰き止められて、湖水と化すと思われる。ときにより、川の出水時には、上流側の住民が浸水に耐えかねて、船で備前堤にこぎ寄せ、堤防を決壊(けっかい)させ下流に濁流(だくりゅう)を流した事も在ると云う。
 現在も、堤防上に「御定杭(おさだめくい)」と言われる小さな石杭(いしくい)が残されているようであるが、この杭は、備前堤の高さが勝手に変更されないように、上流・下流の住民の同意のもとに、堤防の基準の高さを規定(きてい)した杭で、無駄(むだ)な紛争(ふんそう)が再発しないように、建立されたものであると云う。
 なお、江戸時代には川の蛇行区間が多く水位も安定していたため、舟運も盛んで年貢米の江戸への運搬や江戸から肥料の運搬など、多くの船が行き交うため、流域では「河岸場(かしば)」と呼ばれる船の発着場も多くできて、流域は発展したようである。

 

 次回は、再度平川家の系譜に戻り、「平川家の居宅門」を新築した、その経緯などについて記載するものとします。

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその20

  • 2020.02.04 Tuesday
  • 10:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、「小針村平川氏碑識」の碑文中に記載してある、平川一族(三家)と綾瀬川について、記載するものとします。

 

「平川一族(三家)と綾瀬川(あやせがわ)
 碑石の中の文中に「我が宅地は内宿の東の突端(とったん)にあり、一族三家がここに居住する。地勢は南北が狭(せば)まり、東西が長く延び、水田がその外をめぐり、まさに昔時(せきじ)の水際(みづぎわ)の地形は、象の鼻のような地形であった」と刻(きざ)まれている。
 「家牒随筆」によれば、道灌公から数えて五代目の平川五左衛門には男子四人の子がおり、長男の弥兵衛が家督(かとく)を継(つ)ぎ、次男の長雪は江戸にて医業を営み、三男の安左衛門は同じ屋敷地内の東端に、四男の四郎兵衛はその中間に、それぞれ承応三(1654)年と寛文四(1664)年に家屋敷(いえやしき)を与えられ分家(ぶんけ)したとある。
 つまり、本家から二家が分家したのは、元禄よりさらに三十年以上前の時代であり、今から数(かぞ)えれば両家は三百五十年以上前に分家し、一族三家が今に至(いた)っていることになる。
20-1 平川一族の項・航空写真 - コピー.jpg

 上の航空写真は国土地理院のカラー写真としては初期のもので、約四十年ほど前の小針内宿地区の写真であるが、薄緑色で塗りつぶした田地に囲(かこ)まれた土地であり、田畑と住居区域は小高くなった地形で有ることが解(わか)る。
 また、平川三家の在る小針内宿の東端の住居区域は、写真に示す北側の綾瀬川が氾濫(はんらん)し、薄赤色で示す範囲近くまで水に覆(おお)われれば、まさに象鼻のような地形であったように思われる。
 半世紀(約五十年)ほど前までの綾瀬川は、五辰ら十団の川幅であり、小魚(こざかな)がたくさん捕(と)れる子供たちには格好(かっこう)の遊び場あった。
 しかし、綾瀬川の成(な)り立ちを遡(さかのぼ)れば、周辺住民の苦労の歴史が有る。
 現在の綾瀬川は埼玉県の桶川市(おけがわし)の備前堤から、東京の葛飾区で中川と合流、東京湾に注ぐ長さ五十㌖程の川幅は狭いが長い川である。 しかし、江戸時代初期に上流で荒川を締(し)め切り、荒川の流れを変えるまでは、荒川が綾瀬川に流れ込み、綾瀬川流域の土地は低いために、大河の様相を呈(てい)し氾濫(はんらん)も度々(たびたび)発生したと云う。
20-2 備前堤の綾瀬川起点 - コピー.jpg 左の写真は、備前堤付近の綾瀬川の起点を示す写真であるが、ほんの小川程度の源流で、ここから五十㌖程降って東京湾に注(そそ)ぐことになる。
 繰り返して述べることになるが、碑文の中で綾瀬川について、次のように記述されていた。
 『この地には昔大きな沼があり、水は荒川が北より注いで沼に流れ込み、そこから南下していた。中世の民は少しずつ泥をかき集め、溝を掘り、沼をあらって、この地に田畑を作った。
 慶長年間に至っては、関東郡代の備前守伊奈氏が、その河口を堤(つつみ)で遮(さえぎ)り、川の流れを東に導(みちび)いた。この堤が備前堤といわれる。

 これにより、水涸(か)れ尽(つ)きて、其の湿原のもと溝(みぞ)をあつめて川を成(な)し、河の行方(ゆくえ)は低き所に集まり、一帯屈流数十里をなし、埼玉郡と足立郡の二郡の境界をなした。綾瀬川がこの川である。故にこの広大な稲田を望み見るものは、すべてこれらが泥沼や河辺を耕(たがや)し開墾(かいこん)した土地であることを知るべきである(碑石刻印文の訳文)』。
 この川が綾瀬川と称される謂(い)われについて「家牒随筆」でも、往昔(おうせき)のこの地は荒川より水が流れ込み、大きな沼のような場所もあり、耕地は僅(わづ)かであったと。当時の川筋は曲流し、里の人々は「綾羅(あやら)」のような川であると云い、これより、後に綾瀬川と呼ばれるようになったとある。

 

 次回は、「小針村平川氏碑識」の碑文中に記載してある、伊奈備前守忠次公が築いた備前提の構造などについて、最近の航空写真を基に、具体的に記載するものとします。

 

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその19

  • 2020.01.12 Sunday
  • 08:30

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、「小針村平川氏碑識」の碑文中に記載してある、関東郡代であった伊奈忠次公について、記載するものとします。

 

(備前守伊奈氏)
 石碑の碑文中に、関東郡代の備前守伊奈氏が備前堤(びぜんてい)と言われる堤防を築いて、綾瀬川(あやせがわ)の氾濫(はんらん)を抑制(よくせい)し、その後の開拓・作農の発展の祖になったと刻まれている(下の写真は備前守の銅像の一例)
 この伊奈備前守忠次(ただつぐ)公の名前に由来して、現在の伊奈町の町名が冠されたという。
 その忠次公について、伊奈町のウエブサイトでは、次のように紹介している。
 『忠次は天文十九(1550)年に生まれ、初めは熊蔵家次と云っていました。幼少のころから人並みはずれた秀才であり、治水・土木・開田をすすめ、住民の生活及び徳川家の財政安定に貢献しました。家康から三河国小島の旧領地と武州小室(こむろ)・鴻巣領の一万三千石を与えられ、後に従五位下備前守に任ぜられ、代官頭(後の関東郡代)となりました。家康は忠次に関八州の諸税を把握(はあく)させ、さらに市川・松戸・房川(北葛飾郡栗橋町)三か所の主宰者(しゅさいしゃ)として江戸への入口守備を命じました。
 伊奈町における忠次は、小室郷(伊奈町大字小室字丸の内)に陣屋を構(かま)えて関八州の天領(幕府直轄領)を治(おさ)め、検知の実施・中山道その他の宿場の整備・加納備前堤(綾瀬川の堤)・川島大囲堤を築堤するなど関東各地に亘って治水・土木・開墾(かいこん)等の事業に大きな功績を挙(あ)げました。
 また、民衆の立場にたって温情ある政治を施(ほどこ)し、治水は無論のこと河川の改修・水田開発・産業の発展を図(はか)り、財政向上に貢献した忠次は、家康の信頼も厚く、家臣や領民にも感謝と尊敬をされながら、慶長十五(1610)年に病(やまい)のため六十一歳でこの世を去り、鴻巣市の勝願寺に葬(ほうむ)られました(伊奈氏歴史探訪抜粋)』。
 忠次公は、伊奈町のみならず関八州の発展に貢献した偉人と讃(たた)えられ、代官頭の職に留(とど)まらず、江戸政権下で本田正信や同正純らと同格の、年寄衆の地位にまで昇りつめたことは、広く世に知られている。なお、その後は二代目忠政が継ぎ、その後の伊奈氏については、同サイトで次のように述べている。
 『二代目忠政の嫡子の忠勝は、父忠政が若くして死亡し、忠勝もまだ幼少の身であったため、代官頭には任ぜられませんでした。代官頭には代わって伯父(おじ)の忠治が任ぜられましたが、忠勝も父の死の翌年九歳でこの世を去り、伊奈の願成寺に葬られました。このため忠次の直系は断絶し、一万三千石は没収されてしまいますが、忠次の偉大な功労が認められ、忠政の次男(忠勝の弟)の千代松(忠隆)に対して、旧領地の小室郷が与えられお家断絶は免(まぬが)れました。代官頭の忠治の子孫は、寛政三(1791)年に十二代目が故あって改易されるまで、関東郡代の職を世襲(せしゅう)しました。直系の伊奈氏も、関東郡代の職や領地を取り上げられますが、直参の旗本として存続し、寛政四(1792)年に領地没収後、新地一千石を伊奈に拝領し、明治時代に至っています(歴史探訪「伊奈備前守忠次と伊奈」の部分抜粋)』。

 次回は、「小針村平川氏碑識」の碑文中に記載してある、平川一族(三家)と綾瀬川について、記載するものとします。

道灌公の末裔家の史書ーその18

  • 2019.12.21 Saturday
  • 08:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 小田原籠城戦で秀吉公に敗北した北条家は、切腹を命じられた氏政や氏照、許されて高野山に蟄居を命じられ残された一族など、その後に北条家の正統一族が断絶するまでの遍歴を他の資料を基に、今回記載するものとします。

 

北条家の遍歴)
天正十八(1590)年豊臣秀吉軍に敗北した後北条家の抗戦派で四代当主氏政と其の弟氏照は、小田原城下にて切腹し、穏健派の氏政の長男で五代当主の氏直と其の弟の氏房
(岩槻城主)及び氏政の弟氏規(韮山城主)らは、共に高野山に蟄居・遍歴(ちっきょ・へんれき)の身となるが、氏直や氏房たちのことについて「改定 史籍集覧 第五冊(近藤瓶城編)通記第二十五の関八州古戦録」の項によれば「北条氏直高野登山事」という記述がある(下記掲載の写真)
 関八州古戦録(かんはっしゅうこせんろく)は史料価値は十分でないとされるが、人物描写(びょうしゃ)や其の時の成行(なりゆ)きなどの機微が読み取れるので以下に訳文記載する
 『天正十八年七月十二日秀吉公の命により、北条氏直は紀州の高野山へ暫
(しば)らく蟄居(ちっきょ)されることになるが、氏直の北の方(正室)は徳川家康公の姫君であり、すぐる天正十一(1583)年の七月に小田原に御輿入(おこしい)れし、この度の御暇乞(おいとまご)いのさだめにあたり紅涙(こうるい)にむせぶ其の思いは、憐(あわ)れとしか言いようもなし。此のとき氏直は肌身に付けたお守りを取り出し、これは高祖(北条早雲)から伝わるお守りで、早雲公が伊豆の国で決起して明応四(1495)年九月十三日に湯坂の城に大森不二庵を滅ぼせし、其の日の夕方の出陣に備えて身を固め、食膳に向かい勝栗(かちぐり)を半分食べて、残り半分は鎧(よろい)の身に付け出陣するに、其の夜は難なく敵を打ち滅(ほろ)ぼすことができたことより、吉例の物であると其の勝栗を錦襴(きんらん)の袋に入れ、氏綱、氏康、氏政より我に至る五代の間、持ち伝え秘蔵されてきたものである。我今浪々(ろうろう)の身となり御身(おんみ)へ渡し置き参らせると云う。もしもまた、後の世に子孫の中から世に出て継承する者があれば渡してほしいと云う。
 北の方は泣々これを受け取り御身離さず所持していたが、氏直が亡くなった後に家康公の仰せにより、池田輝政へ再嫁
(さいか)のときに北条氏規に譲り渡したと聞く。また、このとき北条氏勝(氏直のいとこ)も高野山へ供をすべく準備をしていたが、家康公が秀吉殿下に対し、「氏勝は以前より殿下の騎下(きか)に下り、関東諸城の先導となり、軍功に励(はげ)みたるを無下に高野山に遣(つか)わせるは、いわれなきことである。そのようなことをすれば、これから投降するものが反忠をつかまつることになる。このたびは、この者に本領を与えても良いのではないか」と申し上げれば、秀吉公はこれを聞き、「紛争の最中(さなか)で安易に下した命(めい)は我の誤りである」と命令を留置し、氏勝は高野山に登ることなく、相州(相模)玉縄(たまなわ)の奪領を返し賜(たまわ)れた。
 さて、氏直については同二十日に小田原を発足したが、それに従った者たちは太田氏房、北条氏邦、氏規、氏忠、氏堯、松田左馬助、内藤左近太夫、福島伊賀入道、塀和左兵衛尉、依田大善亮、山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門、大道寺孫九郎、菊池七兵衛以下兵士三十人、下士凡
(およ)そ三百人なり。
 このとき、家康公はお見送りとして榊原康政
(家康を支えた徳川四天王の一人)を差遣(さしつか)わした。また、秀吉公も懇情(こんじょう)を持って旅中に支障が無きよう警護の武士、宿々の伝馬、道中の賄(まかな)いなどを与えられ、高野山に入れば二万人分の扶持料(ふちりょう)を賜り、其のほかに諸々(もろもろ)の雑用調度類を賜り下された。
 しかし、高野山の山頂は寒冷が特にはなはだしきと聞き、これを憐
(あわ)れとおぼし召し、翌年の十一月十日に麓(ふもと)の天野の地に移させ衣服から酒茶のたぐいまで十分に恵み賜った。さらに翌年の春に氏直は泉南の興応寺へ移され半年ばかり滞留の間、秀吉公は大阪の城に招き面会し北畠信雄の旧宅を与え住まわせ、白米三千俵を賜り、翌年の春には九州か中国の地の一州を宛(あて)がうと約諾(やくだく)を与えたが、氏直は疱瘡(ほうそう)を患(わずら)い回復することなく十一月四日に三十歳の若さで逝去(せいきょ)した。
 かっての一大勢力で、家康公の次女督姫の婿君
(むこぎみ)でもあり、また、秀吉公からも慈恵を頂いたるに誠に憐れなことである。さらに、その弟の氏房も翌年の四月二十日に肥前の国・唐津の陣中にて、これもまた疱瘡を患い、不幸短命なる二十八歳にして逝去された。ここに至りて北条家の正統は断絶したことになる(訳文)』。

 次回は、「小針村平川氏碑識」の碑文中に記載してある関東郡代で在った伊奈忠次公について、記載するものとします。

道灌公の末裔家の史書ーその17

  • 2019.12.09 Monday
  • 10:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、前述した氏房公より資吉に賜った感謝状や小田原城での北条家の戦いなどについて、家牒随筆を参考に記載するものとします。

 

 前回「その16」にて記載の小田原城の戦いに於いて、平川資行は戦功により氏房公より感謝状を賜(たまわ)ったと記述した。

 左記上段の写真は、その時の「感状写」である(家牒随筆より)
 この感状の内容を訓読と訳文で示すと、左記下段の記述のようになる。
 家牒随筆では、この写しに続き、次のような記述がある。

『伝承によれば天文七(1538)年北条氏康の川越合戦の時、資行は五十二歳なり。天正十八(1590)年北条氏政の小田原城が落城した時、資吉は五十三歳なり』。

 

 また、氏房や資吉たちの小田原城での籠城(ろうじょう)以後の足跡(そくせき)について、岩槻市史においても次のように記述している。

『天正十八(1590)年三月、小田原城詰(つ)めを命ぜられた氏房は、岩槻城を伊達与兵衛等に預(あず)けて入城し、城の東方の久野口などの守備についた。五月三日の宵、夜陰(やいん)に乗(じょう)じて蒲生氏郷(がもううじさと)の軍に夜襲(やしゅう)をかけ、氏郷に大きな打撃を与えたことは「関八州古戦録」の「太田十郎夜討の事」に紹介されている。
 また、北足立郡伊奈村(現伊奈町)の平川家には氏房の感状の写が伝えられ、それによると、小田原城に氏房麾下(きか)で詰(つ)めていた平川資吉は、五月十五日渋取口の戦いで豊臣方を討ち破り、氏房から感状を与えられたという。こうして氏房らは小田原城を死守したが、城内では北条氏の老臣松田憲秀を始め豊臣方に内応する者があいつぎ、また包囲軍からの内部撹乱(かくらん)によって城内にも疑心暗鬼(ぎしんあんき)を生じる者が次第に多くなった。加えて東山道を進んできた前田利家・上杉景勝軍は北武蔵の諸城を攻略(こうりゃく)し、岩槻城も浅野勢の火攻めによって五月二十二日(一説には二十日)落城した。
 氏房も大勢(たいせい)の如何(いかん)ともしがたきを悟(さと)って和平論を唱(とな)えた。これを察知(さっち)した秀吉は、六月二十四日黒田孝高らに命じて、氏房に氏政父子に対して和議を説かせた。同日韮山城(にらやまじょう)を守っていた氏規も、家康の勧(すす)めで和議を説(と)いたので、氏政父子も遂に秀吉の武力の威嚇(いかく)の前に降伏(こうふく)を決心し、六月二十九日和議の調停を織田信雄に依頼、七月五日秀吉に降伏した。
 この結果、氏政、氏照、大道寺政繁、松田憲秀の四人は死を求められ、氏直は家康の女婿(むすめむこ)だった関係から助命されて、紀伊高野山に放たれた。この時氏房も氏直に従い高野山に一族三百余人と共に赴(おもむ)いた。しかし、氏直は天正十九(1591)年に三十歳で病没、これを追うかのように氏房も文禄元(1592)年四月二十日朝鮮出兵のため肥前唐津に在陣中、名護屋城竹之丸内で二十八歳の悲運な生涯(しょうがい)を終えたのである。

 「小田原編年録」(伝記)によると氏房の墓は肥前唐津岩村の医王寺とある。その所を土地の人は、おだわらほうじょう 、または、氏房山 とも言っている』とある。
 なお、医王寺は現在の唐津市相知(おうち)町にあり、氏房の位牌(いはい)のほかに「侍臣殉死(じしんじゅんし)の位牌」があり、岩槻より下向した百六十名の家臣のうち、細谷三河守資実ほか十一名の追腹殉死者を記述した位牌もあるという。(岩槻市史 古代・中世資料編  岩付太田氏関係資料)


 次回は、 秀吉公に小田原城で敗北した北条家は、その後、切腹を命じられた氏政や氏照、許されて高野山に蟄居を命じられた一族など、北条家の正統が断絶するまでを他の資料を基に、記載するものとします。(修正12.10)

 


 

道灌公の末裔家の史書ーその16

  • 2019.11.19 Tuesday
  • 12:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、太田道灌の三男太田資行の長男の平川資吉について、家牒随筆を参考に記載するものとします。

 

「平川資吉(資行の長男)について」

  前に記載した「道灌公の末裔家の史書ーその9」の中で、公的な史書の「系図纂要(けいずさんよう)」について記載した。

 この中の左記写真の上段に示す「源朝臣姓太田」の持資(道灌)とその子らの部分を抜粋(再掲)した。この信頼性の高いといわれる「系図纂要」をみると、資行(すけゆき)・太田源三郎の名が在ることを紹介した。

 太田資吉(すけよし)は道灌の孫にあたる、資行の長男である。

 ここで、左記写真の下段に示す「家牒随筆」の平川資吉(すけよし)に関する記述であるが、内容は以下のとおりである。

 

 『平川資行の子・源三郎資吉は天文七(1538)年六月二十日に誕生。母は春日八郎光行の娘で妻は内藤仙右衛門の娘である。これまで、先祖からの紋章は桔梗(ききょう)の紋を用いていたが、親子に権略(けんりゃく=はかりごと)ありて、これより釼酢漿草(けんかたばみ)に更正する。
 父より資行自筆の詩書一葉・馬の勒(くつわ)一組・腰刀一本を譲り受け、また、家督も受け継ぐ。資吉には二人の子があり、長男は五郎右衛門、次男の光資は早世する(訳文)』。

 

 また、「家牒随筆」の同ページに附録と称して、末尾下段に示す写真の記載がある。

 内容は以下のとおりである。

                                                       

 附  録
 『太田源六郎資康(すけやす)と源三郎資行兄弟は、小田原北条家の家臣として数度に渡り戦功を挙げ、氏康より感謝状を賜(たまわ)った。さらに、天文七(1538)年に北条家が上杉管領(かんれい)と川越合戦のおり、春日八郎光行が二千余の兵を率(ひき)いて進軍する際、資行を武者奉行として付き添わせた。
 その後、北条家が関東を平定し、春日八郎光行は足立郡菅ヶ谷に陣館
(じんやかた)を築き、足立一円を領有した。長男の春日下総守景定は、永禄八(1565)年に埼玉郡の岩槻城に移り、足立一円と埼玉半郡を領有した。
 永禄十二(1569)年北条家四代当主の氏政の命により、嫡男
(ちゃくなん)氏直の弟・太田十郎氏房が岩槻城主として入城した。景定は氏房公の家臣として足立郡小針村に陣屋を築いて移り、また、桂全寺も開基(現存)した。
 その後、天正十八(1590)年豊臣秀吉公が関東追討
(ついとう)の折、当村春日家の陣館は敵の手に落ち、景定とその子・左衛門佐家吉及び平川資吉たちは共に氏房に従い、小田原城に籠城(ろうじょう)中の同年五月十五日渋取口の戦争において、資吉は戦功を得て氏房公より感謝状(後述)を賜った。同年七月に城が墜(お)ちると氏房、春日親子及び平川資吉たちは、共に高野山へ、その後、許されて朝鮮出兵のため、肥前唐津(現 佐賀県唐津市)に移り行き、その地で氏房が病没した為、春日氏は同所に蟄居(ちっきょ)する。

 ことここに及んで平川資吉は本国の武蔵に帰る。
 武蔵国は徳川家康公の支配地となり、資吉は潜(ひそ)んで小針村の東端の地(現在の平川家の地)に帰農する。資吉は帰農の日浅くして財産に乏しく、天正十九(1591)年正月元日に藁(わら)を束(たば)ねて供え物用の器(うつわ)に盛るという。それ以降は、これを代々の家のしきたりとする。この事を推(お)し量(はか)るに、中世の人々の心の慎(つつ)ましさには感服する。
 資吉は慶長十九(1614)年二月十二日に逝去(せいきょ)する。 七十七歳、父資行の墓の側に葬(ほうむ)(訳文)』。          

                             法名 浄譽禅定門 平川資吉
                             法名 妙玄法尼  仝資吉母
                               慶長九(1604)年七月七日卒

 

 

16-2 資吉の項・附録 - コピー.jpg


 次回は、前述した、氏房公より資吉に賜(たまわ)った感謝状や小田原城での北条家の戦いなどについて、家牒随筆を参考に記載するものとします。

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその15

  • 2019.11.01 Friday
  • 10:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、前回投稿の「その14」に引き続き、春日家の家譜について、幕末期の14代当主・顯協とその継養子の顯道について、家牒随筆(訳文)を参考に記載するものとします。

 

15-1 春日氏末期系図 - コピー.jpg 前回投稿の「その14」では、春日家の13代当主の顯秀まで記載したが、左記の図は前回も記載した、春日家系図の幕末部の再掲である。
 今回は、顯協と継養子の顯道について記載する。

 

⦿14代=顯協
 顯秀養子 実父 松下圖書頭統政の次男 春日邦三郎 明治十(1877)年五月二十三日 卒 五十一歳 徳川家慶公・家定公・家茂公・慶喜公の臣なり。
 慶応四(1868)年徳川幕府の廃職に付き、維新王政の明治元年と改号になる。この年、幕府の家臣達も廃止されるに付き、春日顯恊の旧領地は、悉(ことごと)く上地(あげち:没収)となる。このため、明治二(1869)年に大宮県庁へお願いし、旧領の中の小針内宿村へ顯恊は養母・妻子を携えて帰農した。その後、養母・子女・孫女(まごむすめ)は病死する。
 明治五(1872)年に顯恊は妻のキンと共に東京へ寄留し、顯恊はその地に於いて病死する。

 

⦿15代=顯道
 顯恊養子 実父・御納戸組頭 永井勘兵衛の次男 明治元(1868)年十月二十六日 南蝦夷地の吉岡嶺に於いて戦死 法名 戦真院譽勇心鉄塲大居士 小針内宿村の桂全寺境内に移墓する。春日左衛門 初名 鉄三郎
 慶応元(1865)年三月徳川家茂公へ春日家継続を願済なり。即ち徴兵組頭仰せ付けられ、その後、徳川将軍が廃職すると言えども旧臣達は、徳川家を再興しようと願い、慶応四年の形勢(江戸無血開城)に至るも、なお彰義隊と称し、江戸上野の寛永寺の山内に数百の脱藩藩士を集めて、朝敵となりて同所で官軍と戦うが、利あらずやむなく退く。後に陸奥国の会津・仙台などにて戦うが、奥羽諸城が官軍に降ることから、同志と謀(はか)り、同年十月に軍艦にて奥州寒風沢(おうしゅうさぶさわ)を発して、南蝦夷地(えぞち)に着き、函館の五稜郭に於いて、官軍と大いに戦い勝利を得て、同年十月二十六日に松前を奪取せんと兵七百を率いて官軍と吉岡嶺にて戦うが、顯道はこの地にて戦死する。このことは、国史にても大凡(おおよそ)は述べられている(以上訳文)

 

 「家牒随筆」の春日家に関する項について記載したが、春日家の歴代の歴史を見れば、決して平穏だったとは云い難い。
 北条氏康の家臣の春日光行が数々の戦功を挙げ、北条家が関東平定の時代には、春日光行は武蔵の足立郡菅谷城主、また、その子の春日景定が岩槻城主で有った頃は、隆盛を極めていたものと思考する。
 その後、秀吉公に小田原城を攻められ、籠城(ろうじょう)し戦うも利なく敗北し、主君・北条氏房公に随(したが)い、景定、その子家吉も高野山に幽閉(ゆうへい)される身となる。
 後(のち)にまた、秀吉公に許されて、朝鮮出兵のため肥前の名護屋城に入るが、氏房公が病死し景定は蟄居の身となる。この頃の景定親子の胸中は如何様(いかよう)なものだったのか。
 しかし、その五年後には、景定の子の家吉が徳川家康公に許されて、父景定と共に召し抱(かか)えられ、家吉は江戸時代に再び働きの場を得て、その後春日家は永く徳川幕府に仕え安泰(あんたい)な時代が続くことになる。
 しかし、さらにその二百五十年以上後に、江戸幕府は崩壊し、時の旗本・春日顯恊にも不幸が訪れる。
 当然のこととは言え、春日家も領地を悉(ことごと)く没収され、顯恊は養母、子女、孫娘を携(たずさ)えて小針内宿村内に帰農することとなる(元家臣家で姻戚関係にも有った平川家に寄留したとのこと)

 その後、養母、子女、孫娘は病死し、顯恊夫妻は東京の知人宅に寄留するが、その地に於いて病死するとある。江戸幕府崩壊(ほうかい)に因(よ)る領主・旗本一族の悲哀(ひあい)である。
 なお、顯恊の子顯道は徳川家茂公に仕え、徴兵組頭を仰せ付けられ、その後徳川家が滅亡するといえども、再興を願い彰義隊を結成し、江戸上野の寛永寺の山中で数百の脱藩藩士を集めて官軍と戦うが、利有らずやむなく退く。さらに陸奥国の会津から仙台と転戦するが、奥州諸城が官軍に降ることから、同志と謀(はか)り伊達藩の寒風沢島(さぶさわじま)を軍艦にて発して、函館の五稜郭に於いて官軍と大いに戦い度々勝利を得る。さらに、松前城を奪取せんと、兵七百を率いて官軍と険難な吉岡峠(吉岡嶺)にて戦うが、春日顯道は、この地にて戦死するとある。
15-2 春日左衛門義臣伝 - コピー.jpg 五稜郭の戦いは、官軍に対する賊軍の最後の戦地と言われるが、顯道らの心境を鑑(かんが)みるに、武士道を貫(つらぬ)こうと遙(はる)か彼(か)の地まで赴(おもむ)き、死を迎えるにあたり、我が故郷や妻子への思いは、また逆に、その妻が賊軍の兵士と言われる主人への想いは、如何(いか)ばかりのものであったろうか。
 菅谷城主や岩槻城主で足立郡一円を領していた春日行忠・光行の頃より顯道まで三百有余年の年月、波乱万丈(はらんばんじょう)なるも、哀れな終焉(しゅうえん)である。

 なお、左記の写真は、徳川義臣伝の春日左衛門顯道の記述であるが、携帯用のミニ本とのこと、真偽は定かでないが、訳文すると以下のようである。


 『春日左衛門は彰義隊の准隊長にして最もその名高く、天野八郎と共に大手黒門口を守り、上野山内(さんない)に進入せんとする官軍を防ぎ、ときに山外に撃って出て戦うこと数度に及ぶ。然るに薩兵は諸藩に勝り無二無三(むにむさん)に攻め寄せるに、あわや黒門が破られんとするに、春日は味方を左右に随(したが)え、「吶(とつ)」と檄(げき)して斬って出て、八方十方(はっぽうじっぽう)と相(あい)戦い、一時此の敵を撃退するも、後詰の官軍が盛返すに、防ぎ難きを知りて奥州へ墜(お)ちる』。

 

 (写真下段の詠歌)
  「汚れつる御名(みな)をばそゝげますら男の身を尽くすべき時にあるれバ」


 春日家については以上であり、次回は、太田道灌の三男太田(平川)資行の長男・平川資吉について、家牒随筆(訳文)を参考に記載するものとします。

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその14

  • 2019.10.16 Wednesday
  • 10:00

 

  今回は、前回投稿の「その13」に引き続き、春日家の家譜について、家牒随筆(訳文)を参考に記載するものとします。

 

 前回投稿の「その13」では、春日家の三代当主の景定まで記載したが、左記の図は春日家の簡素化した系図である。四代目の春日家吉から特筆すべき当主を記載する。

 

⦿4代=家吉
 初め武州岩槻城で父の下総守景定と共に住していたが、その後、父景定に従い家吉も平川資吉も小田原へ参上し氏政に属するが、氏政の命により氏房に属する。その後、下総国赤松佐竹との合戦の折り、家吉は先陣に進み敵二騎を討取るが疵(きず)を負う。

 その後、下間の諸勢と戦うこと多し。また、甲城に於いても敵陣へ駆け入り、敵兵が槍数本以って突いてくるを味方の兵も続き、数箇所の疵を負うが、敵一騎を討取る。
 その後、豊臣秀吉との戦いで小田原城に籠城、天正十八(1590)年の落城後、氏房に随い高野山並びに肥前唐津へ移り、氏房が病没後は蟄居する。文禄四(1595)年に徳川家康公より本田佐渡守正信を上使として、父景定と共に召抱えられる。

 元和元(1615)年には伏見城の治部少輔丸(西の曲輪)を授けられ、城番を仰せられる。さらに、寛永二(1625)年に二条城の城番に就き、同十六(1639)年に京都に於いて病死し、同所の禅林寺に葬られる。

 

⦿5代=家春
 別名 春日弥吉 徳川家康公及び秀忠公に仕え、元和八(1622)年十一月十二日病死・三十二歳、武州足立郡大久保大泉院に埋葬する。 法名 功山宗仲
 家伝によれば、春日下総守景定並びに嫡男左衛門佐家吉の親子は、共に初めて徳川家康公に召し出され、父景定には千五百石、家吉へは五百五十石を武蔵國足立郡の旧領地内に賜り、父景定が病死後は、景定へ賜った千五百石を家吉に賜り、初めに家吉に賜った五百五十石は、家吉の嫡男の春日弥吉家春に賜った。しかし、家春が早世したので、家吉の家督千五百石は家吉の次男の春日八十郎家次に賜る。家春の拝領した五百五十石は、家春嫡男の左次右衛門吉春が拝領相続する。

 

⦿8代=貞顯
 七代当主満英の継養子 実父小笠原源四郎貞信の三男 初名半左衛門 又は左大夫 又は左太郎 元禄十四(1701)年三月二十三日 病死  四十七歳 法名 徳厳恵雲

 春日河内守に元禄五(1692)年十二月二日に任官
 徳川家綱公・徳川綱吉公に仕える。元禄十一(1698)年七月九日 武蔵国足立郡の旧領の内千百五十石、小針内宿村・戸崎村・別所村・上野本郷村・辨財村・柏座村の合計六ヶ村を拝領する。元禄十四(1701)年七月九日 父の願い通り遺領高千百五十石の内、次男の左京顯憲へ高三百石を分地仰せ付ける。


⦿13代=顯秀
 龍顯の継養子 実父春日左次郎の次男 初名 左門又は左太郎 別名顯政 春日左衛門 弘化三(1864)年六月二十四日 卒 三十四歳

法名 長却院天秀道倫居士

 徳川家斉公・家慶公に仕える。天保十一(1840)年六月二日京都大阪御目付役 九月十一日発足、 同十二年九月二十三日江戸へ帰府(以上訳文)


 上図に示す13代の顯秀まで、主な当主を記載したが、顧(かえり)みるに、北条氏房の逝去後、三代当主の景定が蟄居した。その三年後の文禄四(1595)年に、徳川家康公より景定・家吉親子が許され、共に召し抱えられることになる。
 その後、春日家は長きに亘(わた)り徳川家に仕えることになる。しかし、十四代当主顯協の時代に、徳川幕府の断絶・明治維新となるため、春日家にも悲哀がおとずれる。

 

 次回は、引き続き春日家の家譜について、江戸末期の十四代当主の春日顯協とその継養子の顯道について、記載するものとします。

 

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道灌公の末裔家の史書ーその13

  • 2019.10.01 Tuesday
  • 10:00

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 今回は春日家の家譜について、家牒随筆(訳文)を参考に記載するものとします。

 

(春日家について)
武蔵國の菅谷城主や岩槻城主で、かつ、小針村の領主も務めた春日家の系譜について、家牒随筆に記載してある。
これを著した平川大作は、春日家より「春日家譜」なる資料を譲(ゆず)り受け「他見無用」と記し、その家譜をもとに他の資料と併せて解りやすく書き残したのが、家牒随筆内の「春日氏系譜略」である。
「他見無用」としたのは、徳川幕府が崩壊し、明治の時代が発足したばかりの世情を想像するに、徳川家の旗本の家譜を外聞するには憚(はばか)れる世情も在ったと推察する。
13-1 春日家の系譜 - コピー.jpg

 上記の写真は「家牒随筆」の春日氏系譜略の冒頭部分であるが、その内容は以下のとおりである。
(春日家系譜略)
 春日家は、最上位の官位である大織冠(だいしきかん)を冠した藤原鎌足公(かまたりこう)の系統である。鎌足公の16世(代と同意)に当たる宮内卿正三位(くないきょうしょうさんみ)の内蔵頭経家(くらのかみつねいえ)の嫡男である左衛門佐正二位(さえもんのさしょうにい)の藤原家季(いえすえ)がはじめて春日を称し、家季の20世である春日行忠を始祖としている。
⦿ 初代=行忠
 行忠は、従四位上春日下総守。家紋は輪寶で、後に牡丹とする。天文二(1533)年十月四日卒、法名は一京院殿桂全林照大居士で武蔵国足立郡小針村に葬(ほうむ)る。
⦿ 二代=光行
 光行は別名を春日八郎と称し、北条相模守氏康(うじやす)の臣下であり、武蔵野國足立郡菅谷城主である。
⦿ 三代=景定
 景定は光行の長男、春日下総守で、初め武州埼玉郡の岩槻城主である。北条氏政の幕下で、氏政の命により太田十郎氏房(氏政の次男)が岩槻城主になる。これより景定は、執政(家宰)になる。永禄年間に武州足立郡小針村に陣館を築き移住する。後の天正十八(1590)年に豊臣秀吉公が、小田原を攻める時、城囲いの中にあり、城が墜ちると氏房に従って高野山に入り、その後、肥前唐津に出兵後、氏房が病死すると、その地にて景定は蟄居(ちっきょ)する。

 後に、徳川家に仕え千五百石を拝領する。永禄年間に祖父の行忠及び母公の墓地の処に小針村桂全寺を開基する。
 なお、上記写真の中で、景定の妹(光行の娘)は、太田源三郎資行(後の平川資行)の妻と記載してある。

 ここで、景定が小針村の桂全寺を開基したとあるが、下の写真は現存する桂全寺の写真である。
13-2 春日家の墓の写真 - コピー.jpg

 写真,老冒柑の門前であるが、左方に△亮命燭房┐校号標と史跡標がある。史跡標には町指定史跡として「春日家の墓」と「むくのき」が標(しる)してある。寺院の中の春日家の墓所には、の写真に示す五輪塔が建立(こんりゅう)してある。

 五輪塔の方形の地輪部(じりんぶ)には、正面右に「春日祖従四位上総州太守藤原行忠朝臣(あそん)」と刻印、正面中央に「一京院殿桂全林照大居士」、正面左に「天文二(1533)年癸巳十月初四日」と刻印してある。その刻印の内容は、上記の始祖である初代春日行忠の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために建立した五輪塔と想定できる。ただし、建立したのは地輪部の側面に記名してあるが、江戸末期の春日家の当主である春日邦三郎顯協(あきつぐ)が、係累縁者の3名と計4名の連名で再興・建立したもので有ることが彫(ほ)られている。
 なお、春日邦三郎顯協と本著の原著者の平川大作は、幕末の同世代の生まれで、主従・姻戚関係にもあり、史伝来歴については、共有していたものと推定する。顯協公は50歳ほどで逝去するが、大作は10年程後の60歳ほどで逝去している。後述するが、顯協公の養継子の顯道(あきみち)は、幕府廃絶の際に彰義隊の准隊長として、上野山内で戦うが利あらず、奥州から函館に墜(お)ちて五稜郭の戦いで、吉岡嶺にて戦死する。義父の顯協公より10年程早く戦死したことになるが、その後、桂全寺に移墓もされている。
哀れなるも春日家は顯協公で断絶となる。

 

 次回は、引き続き春日家の主な家譜について、系図や家牒随筆(訳文)を参考に記載するものとします。
 

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその12

  • 2019.09.14 Saturday
  • 08:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、武蔵の國の菅谷城主や岩槻城主で、かつ、小針村の領主も務めた春日家と姻戚及び主従関係となる平川家の繋がりについて、記載します。

 

【春日家と平川家】
 碑識の中に春日景定(かげさだ)と家吉(いえよし)親子の記載(きさい)があるが、春日景定は岩付城主でその後に後北条家の氏房の家宰(かさい)となり、小針村の領主でも有った。
 道灌の三男の太田(平川)資行(すけゆき)は、景定の父の春日光行の臣下となり、光行の娘(景定の妹)を娶る姻戚(いんせき)関係にも在った。また、春日家吉は景定の嫡男(ちゃくなん)で、太田(平川)資行の長子の平川資吉(すけよし)と主従関係にある。
12 相関図 - コピー.jpg 左記の写真に小田原の北条家、春日家、平川家の相関図を示すが、概要を示せば太田道灌が謀殺されると、太田資康、資行の兄弟は、曲折を経た後、北条氏康の家臣となる。資行は後に気に入らぬことがあり、春日八郎光行の家臣となり、また、その長子・平川資吉も引き続いて春日景定の家臣となる。なお、岩槻城主の氏房は、北条氏直の弟で氏政の命により岩槻城主(北条から太田と改名)となる。これより、岩槻城主であった春日景定は、北条氏政の命により、氏房の家宰(かさい=後の家老職)となる(相関図参照)。
 秀吉が小田原城を攻撃した際には、氏房、春日景定・家吉親子、平川資吉は、小田原方として城に籠城(ろうじょう)し共に戦い、小田原城が落城した際、抗戦派の氏政と氏照は切腹、氏直以下氏房、春日親子、資吉などは、高野山の高室院(現存)などに蟄居(ちっきょ)の身となる。その後一族は許されたが、氏直公は病死、氏房公一族は秀吉公の朝鮮出兵令のため、肥前の名護屋城に入るが、滞在中に氏房公も病死、春日景定は氏房公の死後出家する。後に景定は徳川家康公に仕えることになるが、平川資吉は景定が蟄居するに及んで、武士を捨て密かに小針村に戻り帰農する。
 相関図に示すとおり春日家が管轄する小針村、及び、春日家と平川家の姻戚・主従関係のどちらも深いものがある。春日家と平川家の関係は、元亀三(1572)年に景定が陣屋を小針村に築いてから蟄居、資吉が帰農した後、年月を経て、春日家が徳川家に再度仕えることになってからも、また、その後、徳川家が大政奉還した後の明治初期迄永く続くことになる。なお、平川家は、その後おおむね里正(村の長)をつかさどって来たが、幕末に再度春日家の臣下として士列に加えられることになる。
 後述するが、後年に徳川幕府が崩壊後、春日家の15代当主の旗本・春日顯道(あきみち)は彰義隊として、上野の寛永寺にて戦うが、利あらずして東北から五稜郭と転戦し、後に松前にて戦死、家系は断絶することになる。


 次回は、春日家の家譜について、家牒随筆(訳文)を参考に記載するものとします。