道灌公の末裔家の史書ーその31

  • 2020.09.17 Thursday
  • 08:00

JUGEMテーマ:歴史

 

今回も、前回に引き続き「平川家譜記」の中の主要な部分について、解説記載するものとします。


 今回は、左記写真の「清和天皇から平川家系図」の付加番号仲綱〜広綱の内容を解説記載するものとします。

 上記写真は、「平川家譜記」の今回解説する部分の抜粋写真を示すが、以下に順次紹介するものとします。

 

★ 仲綱(左記系図の付加番号)
「家譜記(上記写真)の記述内容」

 仲綱は伊豆守を歴任し、正五位下に叙せられる。昇殿も許される。父と平氏を討たんと挙兵するが敗れて父と同日に自害する。

「平川大作著・家牒随筆より」
 『仲綱は頼政の長男である。伊豆守を歴任し、正五位下に叙せられる。昇殿への許可も得ている。治承四(1180)年五月に父と共に宇治にて自害する。子息の宗綱は従五位下に叙せられ、右衛門尉・肥後守を歴任するが、同じ宇治の戦にて戦死する。
 その子息の有綱も同じく従五位下に叙され、右衛門尉に任ぜられ伊豆冠者と称せられた。義経の女婿(じょせい:娘の夫)でもあり、大和国に隠れるも頼朝軍の手勢に攻められ合戦の末に自害する。
 逸話にて、高倉天皇(以仁王)の妃(きさき)の建礼門院が中宮の時、清盛の嫡男の平重盛が参内するに蛇がいて膝下までくる。宮中を驚かすのを恐れて重盛は、その頭と尾を捉(とら)えて袖(そで)にて隠し、伊豆守蔵人の仲綱を呼んでそれを処分させるに、宮女の中にこれを知る者は無かった。重盛・仲綱のその沈静なる対応は巧みであった。
 このことにて、重盛から仲綱へ関東にて仕入れた木下(きのした)と云う名馬が送られたといわれる(訳文)』。

 

 

★ 広綱(左記系図の付加番号)
「家譜記(上記写真)の記述内容」

 広綱は駿河守を歴任する。実際は頼政の子で、兄の仲綱の養子となる。丹波国に住し、太田の氏(うじ)を称(とな)える。

 

「平川大作著・家牒随筆より」
 『広綱は実際には頼政の末子で、長兄仲綱の養子となる。丹波国に住し太田の氏を称えた。のちに駿河守に任ぜられる。男子があり隆綱と称する。治承四(1180)年五月の宇治の戦いに源氏が敗れた後は、平氏は益々専横となるため、丹波に潜んで住する。
 源頼朝が平氏打倒の兵を挙げ、朝廷より大将軍に任ぜられる。これに従って広綱は伏見に住むが、世情では伏見広綱とも称された。養和元(1181)年七月に頼朝の妻の政子に男子が生まれ、頼家と命名、自立し嫡子となる。政子は北条時政の娘であり、北条氏はその血縁をもって力を得て、背後から人心を手に入れ地位を固める。
 頼朝に愛妾が在り、これを伏見広綱の家に匿(かくま)っていた。北条時政の妻の牧氏(牧の方)は之を知り政子に知らせた。政子は嫉妬心が強く牧宗親に命じ、広綱の屋敷を打ち壊させ、その姫を追い払った。愛妾であるその姫は、大多和義久邸に隠れた。

 頼朝はこれを聞き、事に託して義久の屋敷に往き、宗親を呼び付け、このことを罵倒(ばとう)し 髻(もとどり)を切りとる。時政はこれを聞いて恥辱と思う。しかし、頼朝は時政との誼(よしみ)を変えることは無かったとのこと。(附録として、広綱は丹波で僧となり潜むが、また出て頼朝に従うとある)(訳文)』。


 次回も、引き続き「平川家譜記」の主要部分について継続記載しますが、次回は途中大きく省略し、太田道灌の父資清(付加番号押道灌(持資:付加番号魁について記述するものとします。

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその30

  • 2020.09.01 Tuesday
  • 08:00

JUGEMテーマ:歴史

 

今回も、前回に引き続き「平川家譜記」の中の主要な部分について、解説記載するものとします。

 

 今回は、左記写真の「清和天皇から平川家系図」の付加番号の頼政のみについて記載するものとしますが、頼政は、武勇に秀(ひい)で歌人としても優(すぐ)れ、朝廷で平家が専横を極(きわ)める中、長年秘(ひ)めていた源氏の再興という野望から、後に、源平合戦で平家を打倒する、その先駆けとも言えるであろう源(みなもとの)頼政公の功績は大きく「家牒随筆」の中でも詳述されています。

 上記写真は、「平川家譜記」の今回解説する部分の抜粋写真と源三位(げんさんみ)・頼政公像を示すが、以下に順次紹介するものとします。

 

★ 頼政(左記系図の付加番号)
 「家譜記(上記写真)の記述内容」
 頼政は世に源三位入道と称せられ、以仁王(もちひとおう)と結んで平家打倒のため挙兵したが、勝利を得ず宇治の平等院にて自刃する。
 官位は従三位(じゅさんみ)・兵庫頭に叙せられ、殿上の間への昇殿も許されていて、左京太夫(右京太夫?)にも叙せられている。
治承四(1180)年五月二十六日自害・七十七歳。入道して頼国・真蓮と改名。

 

「平川大作著・家牒随筆より」
 『頼政は仲政の長子で左京太夫・兵庫頭(ひょうごのかみ)に任ぜられ従三位に叙せられる。後に入道して真蓮と号する。また、源三位入道とも称される。四人の子があり長子の仲綱(実際は弟)に兼綱・廣綱・頼兼と女子の讃岐(さぬき)である。

 頼政は弓馬を得意とし和歌の道にも秀(ひい)でていた。

 仁平(にんぴょう)三(1153)年四月に近衛天皇が病となり毎夜神殿の上で怪鳥の鳴くを聞くに、頼政にその妖怪(ようかい)を退治せよと命じる。ある夜三条東の森より黒雲がたなびき妖怪が天皇を悩(なや)ます。

 頼政は之を弓で射止めるに鵺(ぬえ)という妖怪なり。帝(みかど)の病はこれにて治癒(ちゆ)する。

 これより、帝はその報賞として劔(つるぎ)と宮女(きゅうじょ)を賜(たまわ)らすという。宮女を賜るにあたり頼政が嘗(かつ)て宮女の内の菖蒲(あやめ)を密(ひそ)かに拝観し、前から心ひかれていたことを帝はすでにご存知であった。

 帝は戯(たわむ)れに麗(うるわ)しき宮女三人を着飾(きからざ)らして、その中に菖蒲も交えて上段に連(つら)ねる。そこに頼政を招き自(みずか)らに之を選ばせる。頼政は誤認を畏(おそ)れて決めることが出来ずに和歌をもって思いを述べる。「五月雨(さみだれ)に沼のいわがき水こえていずれ菖蒲とひきぞわずらう」

 帝は此の歌を聞き大いに喜び、その場を立ちて菖蒲の袖(そで)を引きてこれを賜った。また、別に賜った宝剣は、朝廷警護の折に関白の命により、頼政は賜った宝剣にて石を割り裂いて見せたとある。

 平治元(1159)年の冬、藤原頼長及び源為義・義朝などは近衛(このえ)上皇のご命令に応じ、白川殿を襲い平氏と戦う。その後また藤原信頼・源頼政・義朝・光基らが兵五百を率いて三条殿を囲む時に、平清盛(たいらのきよもり)親子・源重成・平実俊(さねとし)・資盛・源為義・頼賢などが諸門を守り大戦となる。ここでも源氏は敗れて戦死あるいは東国へ敗走する。

 永万元(1165)年七月に二条天皇が崩御(ほうぎょ)し、其の葬儀に延暦・園城の二寺の僧徒が儀式の順番で争い戦いとなる。この時上皇(後白河)は源頼政を呼んで自衛させる。

 治承(じしょう)元(1177)年に比叡山の僧徒が神輿(みこし)をかついで皇居に進入しようとする。宮中では諸武将を呼び寄せ警護に当たらせていた。頼政は皇居の北東の達智門(たっちもん)を小勢にて守る。そこに僧徒の軍勢が攻め寄せるに、頼政は冑(かぶと)を脱いで平伏(ひれふ)し、配下の渡辺唱(となう)を差し向け伝えさせる。

 伝言の趣旨は「我(頼政)は山神(延暦寺)を尊崇(そんすう)している。しかし長年不幸にして帝にお仕えしているため、敢(あ)えて山神に弓を引き神輿を阻止せんとする。往時は源氏と平氏が対等に朝廷を護衛していたが、保元の乱以降は平氏が盛んになり、源氏は衰退する。さらに高齢の頼政が疲弊(ひへい)した微力を以って対等に迎え撃つ戦力はない」と才知ある伝言を以って戦禍を回避する。

 この時は近衛大将として平重盛が大兵力を以って表の陽明門の警護にあたっていた。延暦寺の僧兵・僧徒は信義(しんぎ)を重んじ、敢えて陽明門に向かい攻め戦った。承安(じょうあん)四(1174)年の頃には、源氏が所轄(しょかつ)する陸奥・出羽国を除くすべての国々が平氏の管轄する所となるが、兵庫頭に任じられていた源頼政は、平治年間(1159〜)から意を決して官軍に属す。これは源氏が今後に再起を計り平氏を討たんとするに、頼政に知謀多にして今あるべきを悟(さと)り、後への望みを託すも常に平氏の専横を恨むことのみである。諸々(もろもろ)ありて、頼政は髪を落として出家する。

 嫡男の仲綱は伊豆守に叙せられ、木の下と称する名馬を所有していた。平宗盛は屡々(しばしば)この馬を貸してほしいと伝えてくるが、仲綱はこれは譲(ゆず)れということに等しいと従わなかった。父の頼政が説得して之に応じさせる。見立てのとおり宗盛は返してくれず、在(あ)ろうことか権威をかさに仲綱の名を馬に焼印し鞭(むち)で打って仲綱を笑い楽しんでいると聞く。仲綱は父に之を告げ我慢ならぬと大いに怒る。

 さて、頼政は往時より以仁王と親交がある。以仁王は後白河帝の第三子で、屋敷は三条高倉に在り高倉の宮と称される。頼政は嘗て夜間に高倉の宮に参上し、説いて話したのは、平清盛に専横の非道在る上に、さらに以仁王までも除かんとしている。頼政は密かに王のために拒(こば)まんとする。諸州の源氏には憤懣(ふんまん)が鬱積(うっせき)していると詳述し王に挙兵を促(うなが)す。治承四(1180)年五月遂(つい)に平氏を打倒せんと令旨(りょうじ:下達書)を作成し、特に源頼朝に一通、次いで木曽義仲及び諸国の源氏にも令旨を以って呼びかけた。なお、処刑された源為義の子の蔵人行家を使者として、密(ひそ)かに熊野新宮の僧徒も誘うに謀(はか)りごとは漏洩(ろうえい)する。

 熊野の別当(統括・管理)は平氏の勢力であり、平氏に馳(は)せ参じ注進する。平氏は直ちに検非違使(けびいし:京都治安職官)に命じて以仁王の逮捕に当たらせる。しかし検非違使の中に頼政の子息もいたため、ことの状況を頼政に報告する。頼政は即刻使いを王宮に奔(はし)らせたため、王は女装して園城寺(三井寺)に逃れる。

 御所には家臣の長谷部信連(のぶつら)が独(ひと)り宮中に留(とど)まり門を開けて待つ。検非違使達が門内に入り王の引き渡しを求めるが、信連は大いに罵(ののし)りながら十四人を殺傷するも遂に捕えられる。しかしながら、王の所在場所については決して告げなかった。

 一方、平清盛が未だ首謀者(頼政)を知らずと云えども、頼政はいずれ露見すると悟り、吾が屋敷に火を点(つ)けて仲綱・兼綱など三百余人を率(ひき)いて王と合流すべく園城寺に赴(おもむ)いた。頼政は高倉宮以仁王を守ったかどで観世音を賜った。このとき頼政は即刻軍議を開いて説くは、夜間に乗じて敵を欺(あざむ)き密かに六波羅(平氏の本拠)を襲わんと云う。しかし、僧徒の中に平氏に通ずる者もあり、異議を発して時が過ぎるのみで決議には至(いた)らず。やむを得ず翌日頼政は王を奉(たてまつ)り南都(奈良)に奔(はし)る。王の軍団は終夜寝ずに奔り宇治に至る。王を始め皆疲れて平等院に辿(たど)り着き、平等院に到る宇治橋の橋板を撤去して平氏に備える。

 平氏の平知盛(とももり)・重衡(しげひら)など兵二万を率いて追い迫る。時は明け方のこと、前衛の緋縅(ひおどし)の甲(かぶと)を着けた武者の数百人が進みて橋を渡らんとするが大半は落ちて溺(おぼ)れる。源仲綱はこれを以下のような歌にして嘲笑(ちょうしょう)する。「伊勢武者は皆ひおどしの甲着け宇治の網代(あじろ)に掛りける哉(かな)(附言として「平氏の本国は伊勢なり」とある)

 源氏の兵は声を発して一斉に嘲笑する。平氏軍は憤怒(ふんぬ)を面(おも)てに出し攻め寄せる。仲綱や渡辺競(きおう)など果敢(かかん)に防戦に当たり、僧徒の明春や但馬・一来などは橋桁の上を平地の如く俊敏に奔り奮戦する。平氏軍の死傷者は甚(はなは)だ多く儘(まま)に進むことも出来ず。しかし、平氏の将の足利忠綱は手勢三百を率いて激流を分けて進み渡河(とこう)に成功する。頼政は傷を負い、兼綱や競をはじめ多勢(たぜい)が力戦の後に死亡する。頼政は自決止む無しと、だれか介錯(かいしゃく)を頼むと言うに渡部唱(となう)が言う。臣下の身でたとえ賤(いや)しいと雖(いえど)も、主(あるじ)の息の有る内はそれはできずと。

 頼政が諭(さと)して説くは、我六代の君に仕え齢(よわい)は八旬(はちしゅん:八十歳)に近い。道のため、家のため、単に天下のため挙兵した。この場で命を亡くすと雖(いえど)も、名を後世にとどめんこと武将の願う処なりと。(よろい)を脱ぎ捨て草の上に軍扇を敷き、そこにて歌を詠んで自刃する。「埋木(うもれぎ)の花咲くことも無(なか)りしに身のなるはてはあわれなりける」

 享年七十七歳なり。また、嫡子の仲綱もこの日に自害して果てる。時に五月二十六日であった。以仁王は逃れて井手の渡しに至り流れ矢に射られ三十歳にして薨(みまか)る。渡部唱は頼政の死体を河に沈め、その首を釣臺(つりど:釣台)の下に埋めて兄競と刺違えて死亡した。

 なお、平家物語では、頼政は自害して果てるが、家臣の渡部唱は自害した頼政の首を取り宇治川に沈めたとわざわざ敵に知らせたとある。しかし頼政の遺命によって家臣がその首を携(たずさ)えて下野(しもつけ)の古我(こが:現・茨城県古河(こが)市)に辿(たど)り着くが、急激に首が重くなり、この先歩み難しは、この地に埋葬せよとのお触れと信じて埋葬したとある。

 後年に山崎闇斎(あんさい)が古我を訪れたとき、そのことを問えば城中に今もその跡ありとも云う。また、摂津国兵庫西ノ宮の広田社にての歌合せの中に頼政の詠んだ次の歌が載っている。「思へただ神にもあらぬ夷(えびす)たにみるものなるを物のあはれは」
 また、一説として、源頼政が決起した頃に旧臣の渡辺競は平氏の屋敷の近くに住していた。決起した一族の衆は競をすぐにも呼んで共に戦おうと云うが、頼政はそのようなことは為(な)さずとも彼は遅れてでも必ず来ると云う。

 平氏方の平宗盛は頼政が決起したと聞き、近くの競の屋敷まで家臣を見に行かせると、家に在するとのこと。宗盛は競を屋敷に呼び問いただす。三位(頼政)は決起して起ち上がるに汝(なんじ)はどうして従わないのかと。

 競は偽(いつわ)りて答えて云うに、自分は近頃三位と諍(いさか)い在(あ)りて今回のことは報(しら)せが来ていないと。これを聞き宗盛は高録をもって召し抱えると誘う。競は偽って喜んで従いますと云う。宗盛は引き出物として競が馬を所有していないのを哀れみ、宗盛の愛する駿馬(しゅんめ)を与えた。
 競は屋敷に帰り頼政軍に合流すべく騎乗し宗盛家の門を過ぎるとき大声にて叫んで云う。渡辺競は源氏の旧臣なり何故(なにゆえ)に叛(そむ)いて仇敵(きゅうてき)に仕えることが有ろうかと。今から三位の所に馳(は)せ参ずるなり拒むもの有らんかと。

 平氏の兵で敢えて追撃(ついげき)する者なく容易に園城寺の頼政軍に合流する。これより、頼政は叡山(延暦寺)と南都(奈良興福寺)の僧徒も集め、以仁王に合力する策を以下のように述べる。今夜雑兵達千人を三条(以仁王の屋敷地域)に遣わし放火して、そちらに平氏の兵を誘い出し戦って打倒する。さらに選(え)り抜きの騎馬兵数百をもって六波羅(平氏一族の居宅地)を取り囲み襲えば必ず勝利を得ると。しかし、密かに平氏に密告する者がありて事は成就せず、頼政は以仁王を伴い南都(奈良)に奔るが途中の宇治の平等院にて平氏に追いつかれ、ここにて戦となる。
 後に、頼政の次男の頼兼は従五位下の蔵人に任ぜられ父に続き大内(皇居)守護を務める。 その子息の頼茂は正五位下の兵庫頭に任じられ大内守護をも務める。鎌倉将軍の源実朝(さねとも)が暗殺され、頼茂は将軍にならんと望み秘かに兵を挙げんとするが、事は発覚して朝廷兵が追討・頼茂は内裏(だいり)内の仁壽殿(じんじゅでん)にたてこもり、火を放って自殺する。子息の頼氏下野守(しもつけのかみ)も父と同様に仁壽殿にて死亡する。なお、源国政の実父は斎院の次官職などを歴任する源国平で、国政は後に頼政の養子となり山縣三郎とも称した。
 また、頼政の娘の讃岐は二条帝に仕える女官で、頗(すこぶ)る経史(けいし:儒教の教典)に精通し嘗(かつ)て以下のように述べたことがある。私は若くして頼りにしていた人を失った。同じように誕生日が来るたびに、いつも私が生まれたときの母の苦労を想うと飲み物も口に入れること堪え難し。されど世の人は生まれた日を皆祝う。これは私の得心しがたい所であると云う。京極黄門・正二位中納言の民部卿である定家卿の選択した百人一首の中に二条院讃岐の歌がある。「わか袖はしほひに見えぬおきの石人こそしらねかわくまもなし」
 また、讃岐が二条院の時の内裏(だいり)歌合せには、「見るめこそ入りぬる磯の草ならめ袖さへ波の下に朽ちぬる」と詠んでいる(以上・家牒随筆より:訳文)』。


 次回も、引き続き「平川家譜記」の主要部分について、継続記載するものとします。

 

道灌公の末裔家の史書ーその29

  • 2020.08.01 Saturday
  • 08:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回も、前回に引き続き「平川家譜記」の中の主要な部分について、解説記載するものとします。

 

 左記写真の「清和天皇から平川家系図」の付加番号頼綱〜仲政の内容を解説記載するものとします。
 

 

 上記写真は、「平川家譜記」の今回解説する部分の抜粋写真を示すが、以下に順次紹介するものとします。

 

★ 頼綱(左記系図の付加番号А
 「家譜記(上記写真)の記述内容」

 頼綱は官位は蔵人(くろうど:天皇近侍)で従四位下に叙せられる。桃園と号し、  左衛門尉・三河守などを歴任する。和歌を善(よ)くし歌人としても知られる。

  「平川大作著・家牒随筆より」
 『頼綱は頼国の子息で、戦略家をもって知られる。子に長男の仲政在(あ)り。また、下の子の明国は官位の従四位下を賜(たまわ)り、左衛門尉・下野守(しもつけのかみ)を歴任し、多田家の家祖となる。その子行國は従四位下に任じられ佐渡前司(さどのぜんじ)を、その子頼盛は従四位下で摂津守、その子行綱は蔵人の平康頼や藤原成経などと、平氏を滅ぼさんと法勝寺俊寛の鹿谷別荘に合流する。しかし、行綱はこれを時世に逆らう無謀(むぼう)と悟(さと)り、福原に赴(おもむ)き平氏に自首する(訳文)』。

 

★ 仲政(左記系図の付加番号─
 「家譜記(上記写真)の記述内容」

 仲政は官位は蔵人で従五位上に叙せられ、兵庫頭などを歴任する。馬場と号し射術(弓)を得意とする。さらに、和歌も善くし昇殿の許可も得たと伝わる。特に大内(皇居)守護・警護番役を務める。

 

 「平川大作著・家牒随筆より」
 『仲政は頼綱の子息なり。仲政は蔵人兵庫頭に任ぜられる。従五位上に叙せられ馬場と号す。射術を得意とし、さらに、和歌も善くし、昇殿の許可も得たと聴(き)く。特に大内(皇居)守護の警護番役を務める。
 子に長子頼政が在り、次子頼行の子の兼綱は頼政の養子とする。従五位下左衛門尉・検非違使(けびいし)を歴任し、宇治にて戦死する。その子顯綱は源太と称する。治承(じしょう)四年五月に父兼綱が宇治にて戦死の時源太は二歳で、その母はムヅキ(おしめ?)の中に隠して尾張国額田郡大河内という所に移住する。末裔(まつえい)も後々まで存する(訳文)』。


 次回も、引き続き「平川家譜記」の主要部分について継続記載しますが、次回は特に文武両道に優れ世に知られた源頼政公(付加番号)のみについて、長文になりますが記載するものとします。

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその28

  • 2020.07.09 Thursday
  • 10:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回も、前回に引き続き「平川家譜記」の中の主要な部分について、解説記載するものとします。

 

 今回は、左記写真の「清和天皇から平川家系図」の付加番号ネ蠍〜ν袵△瞭睛討魏鮴盖載するものとします。

 上記写真は、「平川家譜記」の今回解説する部分の写真ですが、以下に順次紹介します。

 

★ 源 頼光(みなもとのよりみつ)(左記系図の付加番号ァ
 「家譜記(上記写真)の記述内容」
 頼光は満仲の長男で東宮権大進
とうぐうのごんのだいしんに任(にん)ぜられる。父より摂津守を相続する。

 官位は左馬権頭(さまのごんのかみ)となって正四位上となる。治安元(1021)年に逝去する。

 

「平川大作著・家牒随筆より」
 『頼光は武名の誉
(ほま)れ高く、東宮大進(皇太子近習)及び伊豫守・左馬権頭を、更に摂津守などの官位を得て、その武勇豪胆さは世に知られる。五代の天皇(園融・花山・一條・三條・後一條)に仕えて正四位上を得る。

 永延年間に摂政・藤原兼家が新邸を造った落成時には、頼光は馬三十匹を献じて賓客(ひんきゃく)に贈与したという。藤原兼家の子の道隆は摂政の位を継ぎ、その弟の右大将・道兼と権力を争う。頼光の弟の頼信は、その頃道兼に仕えていて、頼光に相談する。我が刀にて道隆を刺し、我が主(あるじ)の道兼公をこれに変わらさんと云う。頼光は弟の口を覆(おお)いて、滅多なことは言う勿(なか)れ、事が失敗すればむごい血の海を見ることになると。汝の主君もまた泰然として動くべきでないと諭(さと)され頼信は思いとどまる。

 頼光には三子あり、長子を頼国と云うが、その子孫は後々まで摂津国多田にとどまり摂津源氏と称した。正暦(しょうりゃく)(990)年に頼光は供の侍の数人と丹後の千丈ヶ嶽に入り、酒顛童子(しゅてんどうじ)を誘い出し殺傷した。その郎党の茨木(いばらき)童子は丹波の大江山にありて、頼光の長子の頼国がこれを攻めて滅(ほろ)ぼしている。五年後に頼光は近江(おうみ)の伊吹山の賊徒を攻めて之を滅ぼす。此の賊には首領がおらず、大江山の残党で有ったと云う。
 長保年間に頼光は東宮大進となり、太子邸を護衛時に狐が現れた。殿上の間に伏せる皇太子が、命じて之を弓で射らせるに、一発で之を射抜き皇太子は感嘆して囲い馬を賜わった。ある時に頼光が一夜を弟の頼信が居宅に過ごして酒宴をするに、偶々
(たまたま)一人厩(うまや)の中に繋(つな)がれる者を見かける。彼は何者かと問うに、頼信が鬼同丸(きどうまる)だと応(こた)えて云う。
頼光が彼はもともと屈強なるに、何故もっと厳しく縛らないのかと糺
(ただ)す。頼信は是に従い鉄鎖を以って繋ぐことにする。鬼同丸はこれを聞きて頼光を怨(うら)む。その夜は頼光も酔って頼信の家で床に就(つ)く。鬼同丸は鎖を脱し逃れ出て、密(ひそ)かに組天井に上り機会を伺(うかが)い之を誅殺(ちゅうさつ)せんとする。
 頼光は供侍を招きて警護する。鬼同丸は誅殺する機会を得られず。頼光の一行は鞍馬に赴
(おもむ)くと聞きて之を待ち伏せして誅殺せんと欲し、鞍馬に通ずる途中の市原に至り、野牛(やぎゅう)を殺し身をその間に匿(かく)し、その姿で之を待つ。間もなく頼光が近づき源綱(みなもとのつな)・公時(きんとき)・平貞道・平季武(すえたけ)らが従う。頼光は牛の群游を見て、供侍(ともざむらい)に命じて之に弓を射らせる。源綱は伏せている牛を見て之を射る。牛が突然として起ちて俄(にわ)かに鬼同丸が躍(おど)り出て、刀を振るいて頼光に逼(せま)る。頼光も刀を抜いて之を斬り、遂に其の首を墜(おと)す。人は其の武勇に感服せり(訳文)』。

 

★ 頼國(左記系図の付加番号Α
 「家譜記(上記写真)の記述内容」

 頼国は頼光の嫡男であり、正四位下に叙任され、父の職を継ぎ左馬権頭や摂津守を歴任する。子孫は摂津源氏を称
(とな)える。  

 

「平川大作著・家牒随筆より」
 『正暦元
(990)年に酒顛童子の一党の茨木童子が丹波国の大江山に在るを、頼国が攻めて之を滅ぼす。頼綱や国房など多くの子息に恵まれる(訳文)』。

 

 次回も、引き続き「平川家譜記」の主要部分について、継続記載するものとします。

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその27

  • 2020.06.20 Saturday
  • 10:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回も、前回に引き続き「平川家譜記」の中の主要な部分について、解説記載するものとします。

 

 

 今回は、左記写真の「清和天皇から平川家系図」の付加番号7亟隹Α銑に仲の内容を解説記載するものとします。 上記写真は、「平川家譜記」の今回解説する部分の写真を示すが、順次紹介するものとします。

 

★ 経基王(つねもとおう)(左記系図の付加番号)
 「家譜記(上記写真)の記述内容」
  経基王は六孫王(ろくそんのう)と号し、源(みなもと)の姓を賜(たまわ)る。官位は右馬頭(うまのかみ)・太宰大弐(だざいのだいに)など賜る。位階は正四位上で後に鎮守府将軍となる。天徳二(958)年十一月二十四日卒。母は右大臣源能有(よしあり)の娘。

 

「平川大作著・家牒随筆より」
『経基王は清和天皇の第六子の貞純親王の子である。名は経基であるが、天皇の孫ということから六孫王と呼ばれたと云う。源(みなもと)の姓を賜り天慶年間に武蔵介(むさしのすけ)となる。(史書「前太平記」に、経基は武蔵守を兼務し箕田(みのだ)城にありて、平将門(たいらのまさかど)の軍に攻められしとき奮戦するが、利あらずして京に戻り朝廷に訴えるとある)。
 天慶(てんぎょう)年間に将門が朝廷に背(そむ)くと、密(ひそ)かに京に戻り天皇に報告する。これにより、経基は従五位下に叙せられる。その後、藤原忠文(征東大将軍)に従い将門を討ち、さらに、伊豫(いよ)の掾(じょう:判官)の藤原純友(すみとも)も遙(はる)か遠方の将門に呼応し同国を侵略し兵勢は甚(はなは)だ盛んであり、朝廷は小野好古(よしふる)を追補使長官・源経基を次官として純友を討ち取る。これにより、遂に正四位下に叙せられ、鎮守府将軍に任ぜられる。この時から子孫は後世まで武臣であり、源氏の白旗も用いるようになった。子は八人あり、長子は満仲・次男は満快(みつよし)と云う。
「附 録」
 前太平記には経基の居城は武蔵国箕田城とあるが、現在の足立郡大間村に王の旧居跡がある。推察するに大間村も昔は箕田郷で有ったと思われる。六遜王社という神社が山城国(京都)にあり経基王を祭る。宮殿は京都大宮七條下るにあり、経基王は上総(かずさ)武蔵介でも有ったので武蔵に在国の折は、兵士の視察も兼ねて八国の巡回もしたであろう。遠子孫の平川大作が想うに源経基王が(武蔵介ゆえ)武蔵国足立郡箕田城に在り、天慶年間に平将門が謀反(むほん)し、大軍をもって経基王の居城を襲(おそ)わんとする。王は潜(ひそ)んで京に行き(王間に行き)、これを朝廷に提訴する。その誼(よしみ)により王の居跡を、後に大間村と号した。また、御馬室の有った処(ところ)を馬室村と称する。現在も箕田・大間・馬室の三村がある(訳文)』。

 

★ 多田満仲(みつなか)(左記系図の付加番号ぁ
 「家譜記(上記写真)の記述内容」
   満仲は鎮守府将軍に至る。陸奥守や左馬頭なども歴任する。官位は正四位下で、生れは摂津多田とある。
   長徳三(997)年八月二十七日逝去(せいきょ)・八十八歳。母は橘繁古の娘。満仲は出家・剃髪後に従三位を贈られ満慶(まんけい)と称する。

 

 「平川大作著・家牒随筆より」
 『満仲は経基王の長男であり摂津の多田に生まれ多田満仲と称す。父の職位を継ぎ関東を受領・歴任する。冷泉帝(天皇)は安和二(969)年に中務少輔(なかつかさのしょうゆう)橘繁延(たちばなのしげのぶ)・前の相模介の藤原千晴(ちはる)などと密(ひそ)かに為平(ためひら)親王を立てようと、関東に奔(はし)り乱をなさんと謀(はか)る。満仲は之を知るに繁延を密告する。摂政藤原実頼(さねより)の命にて、弟の満季(みつすえ)とともに、繁延・千晴を捕えて流罪とする。この時の京都騒乱は天慶の乱の如し。
 満仲は嘗(かつ)て述べる「武臣として天子を衛(まも)る名刀は無かるべきかと」筑前の良き鍛冶師を召し鍛錬六十日ほどにて二刀を得る。刀の名を髭切(ひげきり)・膝丸(ひざまる)と云い子孫に伝わる。
 満仲は官位・左馬頭まで至る。その後剃髪して満慶と号し従三位を贈られる。四子あり、頼光・頼親・源賢(げんかた)・頼信なり。源賢は僧となる。頼親は奈良の興福寺の僧と闘(たたか)うにあたり座して流れに処する。子孫は大和に居り大和源氏と称する。
 「附 録」
 鉄の鍛錬六十日ほどにて作したものが不朽の物か、満仲は二刀を試すに囚人を斬る。その威力・一刀は其の髭まで斬り、他の一刀は其の膝まで斬る。これより、髭切・膝丸と名付けたという(訳文)』。

 

 次回も、引き続き「平川家譜記」の主要部分について、継続記載するものとします。

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその26

  • 2020.05.26 Tuesday
  • 08:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回からは、著書の第二章に記載した巻物の「平川家譜記」について、解説記載するものとします。

 

★ 平川家譜記(巻物)について
  伊奈町内宿台(旧小針村内宿)の平川家(本家)の系譜(けいふ)を示す古文書「平川家譜記(かふき)」が、埼玉県立文書館に寄託(きたく)されている。

 上記写真は、その巻物の形状と開いた最初の部分の写真である。家譜とは系譜と同じ意味にとれるが、これに対し系図とは多少異なる。

 系図は先祖の名前と続柄など、至(いた)って簡素な項目を系線を使って一見(いっけん)して解(わか)り易(やす)いように図形化したものであるが、いっぽう家譜(系譜)は系図と同様に系統図の形で記述するが、さらに、先祖の解る限りの情報や時々の世情なども付加したものと云われる。

 写真に示す「平川家譜記」においても、先祖の情報や世情を詳(くわ)しく記述した部分が多々見受(たたみう)けられる。

 巻物内においては、記録を継承(けいしょう)することも主眼として分家・支流なども含めて、詳細に記述しているが、本ブログにおいては、世に知られた部分など興味を持って頂けるような部分のみ、抜粋(ばっすい)記載するものとした。

 

 左記の写真は、平川家譜記の中の平川本家に繋(つな)がる直系のみを抜粋し、さらに、名前のみ簡略記載した系図であるが、名前の右肩に付記した、仮定(かてい)の付加番号に従い、順次紹介するものとしました。

 上記写真は「平川家譜記」の最初の部分であるが、今回はここに示した清和天皇と貞純親王(さだずみしんのう)につい解読記載します。

 

★清和天皇(左記系図の付加番号 
「家譜記(上記写真)の記述内容」

 第五十六代の天皇・父は文徳(もんとく)天皇・諱(いみな)は惟仁(これひと)・号は水尾帝(みずのおのみかど)。元慶四(881)年十二月四日 御歳三十一歳で崩御(ほうぎょ)。母は染殿后(そめどののきさき)の明子(あきらこ)で忠仁公「ちゅうじんこう:藤原良房の諡号(しごう)」の娘。

 

「平川大作著・家碑文草稿より」
 『清和天皇は文徳天皇の第四皇子である。母は文徳天皇の皇后で、藤原家の摂政(天皇の代行役)良房の娘である。天安二(858)年十一月に太極殿(だいこくでん:宮殿)に於いて天皇に即位する。帝(みかど)は寛大で情け深く容姿に威厳ありて、書を読み常に政務に専念する。後世(こうせい)に政治を行うものは、皆がこのときの法令を貞観式(じょうがんしき)と称した。帝は天皇譲位の後に仏門に入り、剃髪(ていはつ)して自(みずか)らに戒(いまし)めを保持した。三十一歳で崩御し、御陵(ごりょう)は丹波国水尾村の水尾神社にあり、神社は京都西山につながる(訳文)』。

 

★ 貞純親王(左記系図の付加番号◆
「家譜記(上記写真)の記述内容」

 貞観(じょうがん)十五(873)年四月二十一日に源(みなもと)の姓を賜(たまわ)る。桃園(ももぞの)親王と号す。親王の序列は四位の中務卿(なかつかさきょう)で上総(かずさ)や常陸(ひたち)の太守。延喜(えんぎ)十六(916)年五月七日に御歳(おんとし)六十四歳でみまかる。母は中務大輔(なかつかさたいふ:官位)の棟貞王(むねさだおう:皇族)娘。

 

「平川大作著・家牒随筆より」

 『貞純親王は人皇(神武天皇以降)五十六世の清和天皇の第六皇子である。母は皇族の女官で、中務大輔・棟貞の娘である。また、官位は親王の序列四位の兵部卿(ひょうぶきょう)で上総や常陸の太守であり、桃園親王とも称された。親王には二子があり名は経基・経生(つねなり)で、姓に源氏を賜った(清和天皇からの三代実録には、貞観十五年四月二十一日に天皇の子八人に源の姓を賜る等とある)。なお、承久(じょうきゅう)元(1219)年に清原良業(よしなり)が天皇の勅諭(ちょくゆ)により編述した和論語十巻の書中には、次のような記述もある。貞純親王が曰(いわ)く、「天道というはおのれの直き心を知る故に、天道は此方よりなす人毎に、天道に任すというは道なし人事をつとめつとめての後に天道に任すべし。人事をつとめずして天道の理なし。つとめ行わずしてよからぬは、ひとえに天の罪人なるべし」とある(訳文)』。

 

  次回も、引き続き「平川家譜記」の主要部分について、継続記載するものとします。

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその25

  • 2020.04.30 Thursday
  • 12:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、「小針村平川氏碑識」に刻印されている碑識の原文などについて、解説記載するものとします。

 

 ここまで、著書の第一章「小針村平川氏碑識」について紹介してきたが、第二章を紹介する前に次の事を記述するものとした。
 昨年の4月に投稿した「道灌公の末裔家の史書ーその2」の冒頭部分では、簡素化のため、序文「はじめに」や碑識(ひしき)に刻(きざ)まれた原文(翻刻文)などの記載を省略した。
 ここでは、省略した「序文」と「碑識の原文」などを付記しておくものとした。

 

★ 序文(はじめに)の内容
 約二百年前の江戸後期に小針村(現 埼玉県の伊奈町内宿台)に生まれ、名主や戸長を務めた平川大作は、若くして徐々に歴史に興味を持ちはじめるが、特に幕末の動乱期には、武蔵国(むさしのくに)の農村にも激動の影響が徐々に現れ、上野彰義隊(賊軍)の戦士などの噂(うわさ)も聞くようになる。
 此の動乱時期に大作は益々(ますます)多くの歴史書を買い求め、後に自(みずか)らも地域の歴史書を執筆(しっぴつ)するようになる。例(たと)えば、その一つが明治七(1874)年に内務省より「皇国地籍編輯(へんしゅう)例則」のお達しを受け、歴史資料の乏しい中、苦労しながら「管轄沿革譜考記」と題した地域の歴史書を明治十五(1882)年に著(ちょ)している。
 その後、大作は往時より自宅に残る多くの古文書を読み解(と)き、平川家の歴史書を書き残そうと思い立ち、数々の書籍や碑石を残したと想定される。その中で特筆すべきは、明治十七(1884)年に「小針村平川氏碑識」と題する碑石を建立していること。さらに、翌年には家の歴史を調べた書籍「家牒随筆」や、家の系図や出来事を系統化した「平川家譜記」(巻物)などを完成している。思うにこれ等の完成には、永い年月を費(つい)やしたものと考えられる。
 この二編の平川家をとりまく歴史書(著書)は、1150年程前の清和(せいわ)天皇を祖とする系譜であり、源氏の姓を賜(たまわ)り、後の源頼朝(みなもとのよりとも)の同族でもある。その系統はさらに550年程前の太田道灌(どうかん)へと繋(つな)がり、その後に平川家にも至(いた)る家系である。

 また、これらの資料を含めた元禄年間初期頃からの平川家の資料・1861点の文書などが、埼玉県立文書館(もんじょかん)に寄託(きたく)されている(文書群名:平川家文書)
 ただし、資料のうち作成された書類は筆書きであり、また漢文形式のところも多く、かつ退化もみられる。また、平川本家の敷地内に建立された碑識も漢文形式で、碑石の彫(ほり)文字も特有の文字が多く退化も進んでいる。
 ここで、平川大作氏の思いを鑑(かんが)みるに、永(なが)きに亘(わた)り伝えられてきた貴重な碑識・資料を、現代語に訳文し書籍化しておくことは、実録を継承(けいしょう)する意味に於いても必要なことと思われる。ゆえに碑石の「小針村平川氏碑識」と、巻物の「平川家譜記」を記録しておくものとした。なお、解説などには、出来る限り「家牒随筆」の現代語訳文も挿入(そうにゅう)するものとした。

                                   平成二十八(2016)年  遠子孫 平川信行 記

 

★ 小針村平川氏碑識について

 左記写真の「小針村平川氏碑識」については、「投稿ーその2」にて現代語に訳文したものを記述した。ここでは、碑識に彫られた彫刻文字をできる限り忠実に翻刻(ほんこく)し、返り点などを入れた解読文を下段の写真に示した。なお、彫刻文字は異体字なども多く解(わか)りにくいため、側部朱カッコ内に現代用語文字を付記した。
 また、「投稿ーその2」と重複するが、碑識刻印文を現代語に訳文したものをさらに写真の下部に行をほぼ揃(そろ)えて、見やすいように掲載した。

 

 

 次回からは、著書の第二章に記載した巻物の「平川家譜記」について、記述するものとします。

 

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその24

  • 2020.04.13 Monday
  • 10:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、明治政府が通達・指示した「皇国地誌(こうこくちし)」について、記載するものとします。

 

(皇国地誌について)
 皇国地誌とは江戸時代が終わり、明治時代初期の明治八(1875)年に、新政府が国土把握のために、発令した「皇国地誌編輯(へんしゅう)例則」のことである。
 具体的には新政府が国土把握のために、地誌(郷土史)を各府県が作成するよう指示し、詳細な報告書の提出を求めたものである。しかし、その事業は難航し、その後に打ち切られ、また完成途中の資料も火災や地震などにより、大半(たいはん)が焼失するなどしたとある。ただ、地方では控えとしていたものが現存するものも多いと云われる。
 なお、その内容項目は政府から統一的に規定され、その項目は五十項目近いものであったとあるが、大作氏はその中の「管轄沿革(かんかつえんかく)」の項を作成、完成したものを残している。
 左記写真は大作氏の著した「管轄沿革譜考記」の表紙部であるが、この書中に「武蔵國足立郡小針村 管轄沿革略記」と題し北条家が領地としていた時代から、小針村の領主の歴史を略記として遺(のこ)している。
 此の著書が皇国地誌に関するものであり、記録に残すべき資料かと考え、記載しておくこととした。

 また、その冒頭には次のような書きだしがある。


 『過ぐる明治七(1874)年に内務省より、皇国地誌編輯例則のお達しにより、予(大作氏)村誌を集成し順次に「管轄沿革譜考記」を著作せんとする。然(しか)れども旧来の管轄の由来は、遙(はる)かな年月を経ていて確(たし)かでない。敢(あ)えて本村の古誌概略を述べるものとする。
 元より古誌に乏しく著書は綿密(めんみつ)なものには成し得ない。往古(おうこ)を去ること遙(はる)かなることを嘆き、誠に感慨の至りに堪(た)えられず。よって、わずかに其の不備を補(おぎな)うは如何(いかが)なものであろうか。
 後(のち)の人々が今を見ることが、ひとしく今の我らが昔を視(み)るが如(ごと)きかと。少しく之(これ)を思い今に書き留めて、後の識者を待つと云うべきか。
               明治十五年四月十二日 平川大作 (訳文)』。

 

 

 下記の図表にその内容(訳文)を記すが、表罫線や備考の欄は、編著者が追記したものである。

 上記記載の図表より、「小針村領主」の歴史を観(み)ると「備考」に示すように、春日家は明応年間の北条家の管轄より、徳川政府崩壊(ほうかい)の幕末までの約四百年近くの間に、三百年近くの長きに渡り小針村を管轄していたことが、読み取れる。

 

 次回は、「小針村平川氏碑識」に漢文形式で刻印された原文を、翻刻(ほんこく)・解説記載するものとします。

 

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその23

  • 2020.03.22 Sunday
  • 08:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、平川家の家紋の変遷について、記載するものとします。

 

家紋の変遷 「桔梗紋(ききょうもん)と釼酢漿草紋(けんかたばみもん)
 前に投稿した「道灌公の末裔家の史書ーその16」の項で、道灌公三男の資行(すけゆき)と其の嫡男(ちゃくなん)の資吉(すけよし)は、親子で相談して「これまで、先祖からの家紋は桔梗の紋を用いていたが、親子に権略(けんりゃく=はかりごと)ありて、これより釼酢漿草紋に更正する」とあった。
 桔梗の紋については「太田家記」などによると、遠く遡(さかのぼ)ること平安の末期(約八百五十年前)の先祖で、広く知られる武将・源頼政公(みなもとのよりまさこう)が、家紋にしたと言われているが、桔梗紋としたその謂(いわ)れについて二つの言い伝えが残されている。
 ひとつは先祖・頼政公が或る戦場において、陣中の奮起を促(うなが)す檄文(げきぶん)を作ろうとした時、近くに水がなかった。しかたなく、陣中の周(まわ)りに咲く桔梗の花を摘(つ)んで硯(すずり)の水の代(か)わりとし檄文を書くに、この効果で大敵を破ることができた。
 これより、桔梗の花は吉兆(きっちょう)であると、これを子々孫々(ししそんそん)までの家紋にしたとある。
 また、もうひとつの言伝(いいつた)えは、頼政公が或る戦場において、深い山の中を進軍中に道に迷い途方(とほう)にくれている時に、近くの沢に桔梗の花が咲いているのが見えた。導(みちび)かれるように其の沢の流れに沿って進軍すると、人里(ひとさと)にでることができ、その後の武運は大いに開けたと云う。この時より、丸に桔梗の紋を衣服紋にしたと伝えられる。
 左の写真は丸に桔梗紋と、丸に桔梗紋をしめすが、丸に桔梗紋は頼政公より以後長く用(もち)いられていたとされる家紋である。一方、丸に細桔梗紋は太田道灌公が、用いた家紋といわれる。細桔梗紋は、桔梗の紋を家紋とする系統が、ほかにも多く派生(はせい)したため、その桔梗紋を基(もと)にして他の系統と区別化するために、用いるようになったと云われている。

 

 左の写真は資行・資吉親子が相談して、用いるようになったといわれる丸に剱酢漿草(けんかたばみ)の家紋である。
 平川本家の墓所の門柱にある家紋の写真であるが、酢漿草(かたばみ)は別名・黄金草(こがねぐさ)とも云われ、野原や道端(みたばた)にも自生する赤紫の小さな葉を持つ草花であるが、茎(くき)は地面を這(は)い黄色い花を咲かせる。その葉柄の三つ葉の紋様(もんよう)が、多くの武家の家紋として用いられたが、酢漿草は日照りや冬の寒さに強く、人に踏まれてもなお根強く繁茂(はんも)するので、一族の繁栄を此の草花によって象徴でき、また、酢漿草に剱を加えた釼酢漿草紋は、あわせて武家・武勇を重んじる意を加えたものである。
 家紋を変えた「謀(はかり)ごと」とはどのようなものか、其の趣旨(しゅし)は定かでないが、鑑(かんが)みるに風雲急を告げる小田原北条家、それに属する岩槻(いわつき)太田家を支えるさだめ、及び道灌公の末裔(まつえい)として系譜を尊(たっと)び残すことなど、意を新たに刻む趣旨で変更したのであろうかとも推察(すいさつ)する。
 なお現在も分家を含む一族三家は、約四百五十年前に定めた丸に剱酢漿草紋を家紋としている。

次回は、明治政府が通達・指示した「皇国地誌」について、記載するものとします。

 

 

道灌公の末裔家の史書ーその22

  • 2020.03.04 Wednesday
  • 08:00

JUGEMテーマ:歴史

 

 今回は、平川家が再度士列に加えられ、居宅門の設置を許可され、新築した当時の経緯などについて記載するものとします。

 

 ここで、再度平川家の伝承(でんしょう)に戻るが、太田道灌公の三男資行及びその子資吉が、北条家から、さらに春日家の家臣として従事し、後に資吉が朝鮮出兵に備え肥前唐津に待機中に、主君の北条家が滅亡(病没)に及び、資吉は武士を捨て本国に帰り、帰農(きのう)したのが天正十九(1591)年とあった。
 その後、子孫は代々おおむね里正
(村の長)をつかさどってきたが、天保十二(1841)年に道灌公より数(かぞ)えて十二代の平川喜伝治が功績により当時の領主・春日左太郎顕秀(あきひで)公より士列に加えられ、再度武士の身となる。これを数えるに、帰農した時から二百五十年ほど後の事である。

 上の写真は平川本家の現存する居宅門(きょたくもん)であるが、「家牒随筆の平川喜伝治の項」に記載されている、居宅門新築の前後の主な出来事を列挙すると以下のようになる。

 

・ 文政九(1826)年五月二十日喜伝治は名主役を拝命(はいめい)する。
・ 天保九(1838)年三月に居宅門を新築する。
・ 同十二(1841)年二月の領主・春日左太郎顕秀公が京都大阪の目付役として在勤中、喜伝治は士列に

  加えられ、小姓及び勝手方元締(もとじめ)として上京する。
・ 天保十四(1843)年に喜伝治を改名し吉兵衛の名を願済
(ねがいず)み。
・ 安政三(1856)年に春日邦三郎顕恊
(あきつぐ)公より𧘕𧘔(かみしも)の着用許可あり、さらに、同四

  (1857)年に帯刀の許可あり。また、喜伝治(吉兵衛)の長男の大作(原著者)の項には次の記述もある。
・ 嘉永四(1851)年十月領主・春日邦三郎顕恊公より居宅門の許可証文を賜
(たまわ)る。 
・ 文久二(1862)年に大作は名主役を拝命。
・ 元治元(1864)年十二月に大作は小姓格として士列に加えられる
(名主兼務)

 

 以上の羅列(られつ)によると、居宅門の新築が天保九(1838)年で、顕秀公より喜伝治が士列に加えられたのは、その三年後である。
 また、顕恊公より長男の大作が居宅門の許可証文を賜ったのは、新築より十三年後のことである。
 このことを推し測るに、居宅門の新築は既に許可を得ていたが、許可証については、何らかの事情により、その後かなりの時期を経
(へ)て改めて賜わったものと推察する。
 写真に示す現存の居宅門は、この時、つまり平川家が再度士列に加えられた時の、江戸時代の約百八十年程前に新築した居宅門で在ろう。今後も貴重
(きちょう)な建築遺構として、永く保存されることを望むものである。
 なお、喜伝治(後の吉兵衛)が士列に加えられたのは、領主・春日家に対する貢献
(こうけん)が大きく、卓逸(たくえつ)した人物であったためとも伝承(でんしょう)されている。父と同様に士列に加えられた、喜伝治の子大作が「家牒随筆」のなかで、父に対する次のような逸話(いつわ)も著(ちょ)している。
 『維新後の明治六(1873)年に埼玉県第六十二号の布告を以って、「男子たる者 速
(すみ)やかに断髪(だんぱつ)して一身の健康を求め、開化の徳をむなしくすること勿(なか)れ」と告諭(こくゆ)あり。我が父が安政元(1854)年に従前の半髪(チョンマゲのこと)を止(や)め、断髪したのは明治六年の告諭よりも、驚くことに二十年も前である。父の断髪は、どのような識見からであろう。想(おも)うに我が国の開闢(かいびゃく)このかた外国との交際には限りも有ったが、然(しか)るに、近年は万国との交際を促(うなが)すこと頻(しき)りなり。尚また、旧幕府の政権と世態(せいたい)を愚察(ぐさつ)するに、ただ、管世の開化と風俗(ふうぞく)も、それに伴い遷易(せんえき)すべしと按(あん)じたるものなのかどうかは定かでない(訳文)』。
 平川喜伝治が士列に加えられた天保十二(1841)年から僅
(わず)か二十八年にして、徳川幕藩体制の崩壊(ほうかい)・明治維新という新しい時代を迎(むか)えることになる。しかし、地方(特に関八州)の領主や家臣たちにとっては非常に厳しい変革で、戸惑(とまど)いや隠(かく)れた悲哀も伝えられ哀切(あいせつ)も感じる(投稿-その15で記述した顕道と彰義隊の終焉なども伝わる)。

 

 次回は、平川家の家紋の変遷について、記載するものとします。